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単独インタビュー第4弾 ロングインタビュー「スコッチ文化研究所代表 土屋 守さんを迎えて(3)」

12 2月 2010 1,355 views No Comment

土屋さん:実は3年になるとゼミを取るんだけれど、そのいくつかのゼミの中の1つが大野さんのゼミでね、例の「大野 晋」さん。つい最近になって大野先生の本を読み返していて、こんな面白い事はないわけですよ。でも若い時には分からなかったんだけれど、大学3年生のゼミの時に、20歳そこそこなわけじゃない?行ったら案の定、女生徒がいっぱいいる中に男子生徒が何人かいて、ゼミの説明で最初に言われたわけだよ。「私のゼミは、厳しい宿題が出る。その厳しい宿題をやって来ない人間は、ゼミには出る資格がない」と。「だからバイトで忙しいとかクラブで忙しいとかそういう人はこの場から立ち去ってくれ」。そこまで言われたら、仕方がないね、俺らは立ち去った組みなわけよ。

 K:ええ。

 土屋さん:ゼミの初日のガイダンスを聞いただけで、大野ゼミから俺は姿を消してしまったので、もう少し優しいゼミに行っちゃったんだよ。今思えば、あの時にそれでも大野ゼミにいたら、違った未来だったのかもしれないと思うよね。

 K:でもそうでしたら、逆にスコッチ文化研究所を立ち上げられなかったかもしれませんよね?

 土屋さん:全然、立ち上げていないね。

 K:もしかしたら、そうですよね。

 土屋さん:その時は大学3年で俺は何も分からなかったけれど、大学4年の時にインドに行った事がきっかけで、大学のクラブは3年までが活動なのよ。4年になると皆就職活動で忙しくて現役を退いてしまうんだけれど、でも俺はそれがちょっと解せなくて、就職するっていう事がよく分からなくて、それで大学の3年迄は活動していたんだけれど、後輩の指導もなくなったし、じゃあ自由だと思って大学の4年の時にインドに3ヶ月間行っちゃったの。インドに3カ月に行った事がきっかけで、色んな事が変わって来たわけよ。インドに行っていなければ、スコッチ文化研究所もないんだけれど、インドに行った事で色んな人にと出会って、それから「チベット」というフィールドを初めて知って、それが1つの大きなターニングポイントだよね。

 K:はい。

tsuchiya_01[1]

 

 

 

 

 

 

 

 土屋さん:大学4年の秋に帰って来た時に、もう俺の中では卒業するよりも翌年学習院大学の探検部として、未知なるフィールドである所の「ラダック・ザンスカール」というチベットに遠征隊を送ろうと思っていたわけよ。帰って来てすぐにその事をクラブで言って「遠征隊を作るから、行く奴は言ってくれ」と。但し1年休学しないといけないから、それなりの覚悟のある人間、だよね、当たり前の話だけれど、当然の事だけれどそれに向かって費用も貯めないといけないから、授業にも出てられないよ、と。あるまじき事だよ、大学生としては。という様な事を言ったら、何だかんだで4人の人間が集まって。

 K:そうですか。凄い。

 土屋さん:1976年、俺は大学の5年生だけれども、6月~10月迄の4ヶ月間西チベットのラダック・ザンスカールという所に「学習院大学探検部遠征隊」として行ったわけだ。俺を含めて5人。当然言い出しっぺでもあり、最年長でもあるんで俺が隊長として行くわけだな、これが。

 K:はい。

 土屋さん:結局これに行ったがために、再び卒業が延び(笑)。

 K:はい(笑)。

 土屋さん:結論から言うと。

 K:そうですね、1年行ってらっしゃったわけですものね。

 土屋さん:卒業した時には、7年経ってしまっていたんだよ。学習院大学に7年いたわけだ。卒業する時は25歳ですよ。 

K:7年、25歳...はい。

 土屋さん:もはやもう就職も出来ない。という事を知らなかったんだけれど、24歳までなんだってね、新卒って。25歳になったらもはや就職先もないし、で、自分も就職する気もないんで、一応79年に卒業して。

大野さんとの因縁で言うと、国文科だから卒業論文を書かなきゃいけない、卒業論文だけ残して俺は2年留年していたから、最後の卒業論文を書く時にチベットに行ってたから、チベットの昔話で卒業論文を書こうとして、久し振りに大野さんの所へ行って、これこれこういう事で卒業論文を書きます、と言ったらその時俺は知らなかったんだけれど、後から本を読んでよく分かったんだけれど、その時の大野さんの関心事は、日本語のルーツをチベットではなくて、インドのタミル語に求めようとしている時期だったのね。 

K:はい。 

土屋さん:なんで、よもや学習院の学生でチベット語をやろうなんていう馬鹿な奴が出て来ると思っていないから、言ったら大野さんは呆れて「私には指導出来ないから勝手にやれ」と言われたんだよ(笑)。だから、あ、そうですかと。

 K:(笑)。

 土屋さん:だから全く卒論の挨拶に行ったっきり、提出する迄1回も指導を受けずに。

 K:そうですか。

 土屋さん:その頃俺はチベット語をやらないとやっぱりいけないと思って、東京外語大学の「アジア・アフリカ言語文化研究所」という所があってね、当時の所長が北村先生っていうんだけれど、北村先生が日本におけるチベット語の先駆者みたいなところがあって、その北村先生に直接教えを請いに行ってたんだよ。全然学習院よりも俺は、東京外大へ行ってたんだよ。何だこの学生は、という(笑)。

で、そういう関係もあったんで、大野さんから嫌われて、勝手にしろと言われて、勝手にしたら、一応卒業させてくれたんだけど、まあ、お情けで。

 K:はい(笑)。 

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土屋さん:そうすると就職する気もないし、する事も出来ないし、で結局79年に卒業し、その年に再びラダック・ザンスカールを目指してしまったよね。これが1番長かったかな、79年の5月~11月の半年間ラダック・ザンスカールへ行ってた、という。

その間その費用はどうしたかというと、もう仕送りなんて家から送ってくれるわけではないので、大学の6年位からずっと塾の講師をしていて。 

K:ええ。

 土屋さん:だからそっちの道も一時期あるかなと思っていた頃もあったの。いくつかの教室を掛け持ちして、塾の先生をしていたんです。

 K:何を教えていらっしゃったのですか?

 土屋さん:国語と英語と算数と。小学生には国語、算数を教えていたかな。中学生には、国語と社会と英語。

 K:そうなのですね。教えていらっしゃったのですね。

ところで、元々、探検部にいらっしゃった時はリーダーでいらっしゃったのですか?  

土屋さん:クラブの中で言うとマネージャー格だね。主将というのは又同期で別にいて、俺は主務というマネージャーで、但し所帯で言うと2、30人位いるから、3年位になって来ると各合宿のリーダーを俺達がやる。夏の合宿は、3年の時は「北海道の天塩川の川下り」というのがあってね。源流から河口まで下ろうという。3週間位だね。

 K:3週間ずっといらっしゃる場合は、毎日毎日もう川下りですか?

 土屋さん:そうそう。

 K:はい。

 土屋さん:当時は今程川下りが、確立されていなかった時代だから、今でも思い出すんだけれど、アキレス工業というところあって、ここはどういうわけかレジャー用のね、川下りのボートを作るという事になっていて、そこでうちの探検部に色な話を聞かせてくれないかという事があって、俺達も専門のゴムボートを作るというのは、面白い事だから、って試作品を見せてもらって試作品のテストは俺達がしたの。この近辺では多摩川のね、上流の御獄とか、あそこって渓流でさ、カヌーのスラロームのゲレンデにもなっているんだけれど、そこに俺達毎週のように、アキレス工業が作った川下り用の試作のゴムボートを持って、激流下りなんだけどそれのテストに行ったりしていた。で、オールはこういうのがいいとか、川下りにはいわゆるその穏やかなところを漕ぐオールとは違うので、激流を下るにはそれなりのノウハウがあるわけ。そういう物の開発をしたりたとか。その関係で大学3年の時に、北海道の天塩川の源流から河口まで下る事に。試作品の4人乗りのボートと2人乗りのボートを提供してもらって、そして下って。これ面白いよ、やってみると。川から町に上がるというのも変な話だけれど、視線の低い所から土手に上がると町が見えて来るじゃない「おおっと」。町で買い出しして、河原でテント張って、で次の日テントを畳んで、ボートに全部詰め込んで、又次の目的地まで下ると。本当に流れ者みたい。

 K:はい(笑)。それでは毎日充実していらっしゃったから、お家にいらっしゃる事が少なかったのですよね?

 土屋さん:大学の1~2年の頃が1番活動していた頃で、その間にも山に行っていたじゃない、だから年間で百何十日はそういうフィールドにはいるね。

 K:そうですよね。

 土屋さん:3分の1、半分迄行かないけれど、そうね、感覚でいうとほとんど毎週行っている。

 K:お話を伺っていると絶対そういう事が、繋がっていらっしゃるのですよね。

 土屋さん:ものすごく繋がっているよね。特にチベットに行った事が繋がっているよね。

チベットに俺達4カ月、1976年に行くんだけれど、この時の方法論というのが今でも生きていると思うのね。やっぱり何をするかと言ったら「フィールドワーク」なんだけれど、フィールドワークって、ましてやラダックの中のザンスカールなんて日本人は誰も知らないし、日本人がそもそも数人しか行った事がない様な地域なんで、そこの村人の生活がどういうものなのか記録もない。それで記録をする為のフィールドワークで行くわけだけど、方法論としては1つの村に住み込むという事をやるわけだ。1つの村に住み込むと言ってもそう単純な話ではないんで。それは当然の事だけれど。まずその村の村長なり代表を探してその人と交渉をしないといけないし、色んな意味での文化交流なわけだよ。そういう文化交流をしながら、村に住み込んで分かる範囲で彼らの生活記録を付けて行くというさ。4へ続く)      (2へ戻る)

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